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「歴史」を動かす 東アジアのなかの日本史
著者 | 小島 毅 |
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価格 | 1,980円(税込) |
発売日 | 2011年8月1日 |
判型 | 四六判 |
製本 | 上製 |
頁数 | 280頁 |
ISBN | 978-4-7505-1115-3 |
Cコード | C0020 |
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内容紹介
信長、足利義満、清盛など、私たちがよく知っている歴史上の人物は、実際の日本史の研究で明らかになっている実像とはかなりかけ離れている。たとえば清盛。悪役のイメージが強いが、宋との関係を再構築しようとする国際感覚のある人だった。清盛のイメージは鎌倉時代に作られ、勝者の視点を引きずったまま今日にいたっている。
人物だけでなく、南北朝の意味、倭寇の存在、明治維新の背景など、歴史上の事柄はある時代の見方や考え方の影響を受け、常に更新されつづける。日本の歴史を東アジアのなかで見直し、歴史の見方そのものについて考えてみよう。
【もくじ】
はしがき
1章 近代はいつからか
1 明治のリーダーたちの一般教養―儒教
2 日本と朝鮮半島の近代化はどう違う?
3 近現代史の描き方
2章 三人の先駆者たち
4 南蛮貿易と織田信長
5 勘合貿易と足利義満
6 日宋貿易と平清盛
3章 変わりうる歴史認識
7 なぜ南北朝があってはならなかったのか
8 南北朝時代の思想的背景
9 謙信・兼続と鎌倉
あとがき
ブックデザイン 寄藤文平+鈴木千佳子(文平銀座)
【はしがきより】
はしがき
歴史(history)ということばは、古代ギリシャではもともと「真理の探究」を意味したという。その後、この語は二様の意味を持つようになった。起こった事象そのものという意味と、事象についての記録という意味だ。この区別を意識して、後者を歴史叙述(historiography)と呼ぶこともある。ある事象をどう記録して語り伝えるか、歴史には常にこの課題がつきまとう。東アジアにおいて「史」とは、元来、記録を司る役職の官吏だった。
今も歴史学は、史料に伝承された事象が史実なのか創作なのかを調査・判定し、史実と判断された事象を列ねて記述する学問のはずである。そして、真摯な研究者たちは日々そうした営為に取り組んでいる。それによって、これまで知られていなかった史実が明らかになることもあれば、史実だと思い込まれてきたことがそうではないとわかることもある。こうして、歴史として語り伝えられる内容が増すとともに、そのなかの史実の純度も高まっていく。
私が本書でしていることは、そのどちらでもない。すでに学界ではある程度共通認識になっていることをあらためて筋を立てて話したにすぎない。それは私が日本史や東洋史の専家ではなく、思想史をなりわいとする外部者であることにもよる。だが、それ以上に、学界で明らかになってきた事柄が、なかなか社会の共有資産にならないことに対するもどかしさの故でもある。歴史小説やテレビ番組(ドラマだけでなく、教養番組仕立てのものも含めて)では、ともすると一昔前の学説の広報活動がなされ、研究者たちの現在の見解とは異なる“史実”を世に広めている。それらは旧来からのステレオタイプなものの見方を再生産し、その延命を助けている。こうした歯がゆい状況に対して蟷螂の斧を振りかざし、いささかでも「真理の探究」のための役に立ちたい。さまざまな機会に講演するなかで、私がめざしてきたのはいつもそのことだった。
本書はここ数年間におこなった一般向けの講座・講演(学界発表ではないという意味で)の記録である。表現は書物に合う体裁に整えたが、内容はほぼ録音そのままである。第二部を除けば連続性を意図せず、聴衆のみなさんとの一期一会で臨んだものなので、テーマの統一性や内容の一貫性、ましてや重複無き整序性は欠けている。だが、通読していただければ、私の問題意識は伝わると思うし、なぜこのような雑駁な講演記録を一書にまとめたかも了解されよう。
過去に対する見方を動かし、それによって私たち自身の現在や未来を考えるためのよすがとしたい――歴史を鑑とすることの重要性は日増しに切実さを加えているから。大それた願望かもしれないが、本書がささやかな一助となれば幸いである。
【編集部より】
小島さんの書く歴史書はとてもわかりやすい。それでいて、私たちが持っている固定的な歴史観をくつがえす強さがある。歴史は現在を考える上で、とても必要な知識だ。学校で習ったときは、覚えることばかりで面倒だったことも、大人になった今なら、それぞれの事実の意味を理解することができる。多くの大人に読んでもらいたい1冊である。